2012年8月20日月曜日

金メダルの記憶と経験


 レスリングの男子フリースタイルは、ロンドン五輪の最終日、閉会式が始まる数時間前に、88年ソウル以来24年ぶりの金メダルを獲得しました。
 24年ぶりの金メダリストとなったのは、26歳の米満達弘。世界選手権では昨年の2位が最高位だったので、彼にとっても初めての世界一となりました。私にとっても、日本の男子選手が世界一になったのを実際に目にしたのは初めてで、これまでのことが色々と思い出されました。とくに鮮明に蘇ったのは、四年前の北京五輪のときのことでした。

 蒸し暑かった2008年8月の北京でも、日本の男子フリースタイルは金メダリストが誕生するチャンスを迎えていました。55kg級で松永共広が決勝へ勝ち上がったのです。レスリングでは、一日で一回戦から決勝までの試合をおこないます。そして、準決勝までを前半、敗者復活戦から3位決定戦と決勝戦を後半、と分けて、間に数時間の休憩が入ります。松永が決勝戦へ勝ち上がったあとに休憩時間を迎えると、日本の関係者は誰もがものすごく興奮していました。
 決勝戦の相手は、アメリカのセジュド。こちらは、実績だけでなく、それまでの試合内容を見ても松永より格下の選手だと誰の目にも明らかでした。「(金メダル)とれるよ!」「いけるよ!」と、松永の応援団だけでなく、レスリングを熟知した関係者も含めて、決勝が始まる前から喜んでいました。勝負についてはいつも辛口な高田裕司専務理事も、喫煙所でタバコを吸いながら「とりますよ」とこぼれる笑顔をこらえられずに話していました。私自身、親しくしている韓国のコーチから「松永が金だね」と言われて嬉しかったものです。それまで、実力は世界トップクラスの折り紙付きだった松永でしたが、世界選手権ではめぼしい実績をあげられずにいました。「ものすごく苦しくなるほど限界まで自分を追い込んで」挑んだ北京五輪で、ようやく花開こうとしていたのです。20年ぶりの金メダルを松永がとるのだと信じて疑っていませんでした。
 ところが決勝戦では、勢いに乗ったセジュドのペースで試合を運ばれ、技術とバランスの良さが際立つ、いつもの松永らしい試合運びが見られないまま、銀メダルに終わっていました。
 表彰式が終わったあと、
「決勝が決まったところで、俺たち、喜びすぎたかもしれないな」
と、松永の指導者の一人が漏らしました。
 決勝戦を前に、冷静に試合へ挑めるようコンディションを整えなければならないのに、このときの日本の男子レスリング関係者はすべて、金メダルを取る、優勝するということに不慣れだったのです。

 これより何年も前、確か、ブルガリアでの世界選手権のときだったと思います。まだ女子レスリングは五輪種目になっていませんでしたが、すでに何人もの女子世界チャンピオンを育ててきた栄和人監督が、
「第一試合から決勝まできちんと勝って優勝するのは、目の前の難しい試合をひとつ勝つことや、確かな技を使えるようになることとは違う難しさがある。第一試合で気負いすぎたり、準決勝で気持ちが途切れたりしないように、決勝へ向けて整えてしっかり勝てるようにしないと」
と話してくれたことがありました。
 女子と男子では、競技としての成熟度合いが違うという問題はあります。しかし、第一試合から決勝まで、ひとつの大会で優勝するパッケージを仕上げるという、技術や、競技の成熟度とは別次元の考え方が存在すると気づかされました。そして、この優勝パッケージは、経験していかないと身につけづらいのかもしれないと、松永が金メダルを逃したときに再び思い起こされたのです。

 絶対的に優れた個人技量を持つ選手が現れれば、優勝パッケージの経験値など、検討に値しない問題だという意見もあるでしょう。とくに、レスリングのように個人と個人が争う競技であれば、なおさら言われるかも知れません。実際、そのように考えてもかまわないくらい圧倒的に強い選手も、ごくまれに存在します。しかしそのように圧倒的に強い選手も、優勝する経験を積んだスタッフに支えられているのです。
 マットの上で絶対的な強さをみせつける選手は、たいてい20歳ぐらいで世界王者の座に就きます。引退したロシアのB.サイティエフは21歳のときに1996年アトランタ五輪で世界デビューし、金メダリストになりました。M.バティロフは20歳で2004年アテネの金メダリストとなり、北京も連覇しました。日本人にとってもっともわかりやすい例は、霊長類最強と言われたアレクサンドル・カレリンでしょうか。カレリンも、初めて世界一になった1988年ソウル五輪のときは21歳で、そこから2000年シドニー五輪の準決勝まで無敗を続けました。
 彼らはいずれも、個人技量にも優れていますが、同時に、優勝パッケージの経験を豊富に持つスタッフに囲まれていました。選手個人にとっては初体験でも、セコンドにつくコーチや、強化スタッフには世界一になる選手を過去に何人も送り出してきたのです。

 松永が北京五輪で決勝戦へすすんだとき、残念ながら、日本はスタッフも含めて優勝するという経験に乏しい状態でした。世界一を争う場での決勝戦の経験すら、男子フリースタイルでは1995年の世界選手権以来、途切れていたのです。
 ところが、ロンドンでの米満については違いました。昨年、敗れたとはいえ世界選手権で決勝を経験しています。世界一ではないですが、アジア大会では優勝も経験しました。ひとつの大会を、一回戦から勝ち上がり、決勝戦で戦う経験値が、選手だけでなく、コーチも含めたスタッフにとっても、四年前にくらべて飛躍的に増えていたのです。

 今回、米満の決勝進出が決まったあと、関係者はみな、落ち着いていました。米満自身は、準決勝で勝ったときには興奮のあまり、客席へ人差し指をたててアピールし、セコンドのコーチを待たずに場内をスタスタ歩き始めていましたが、周囲は落ち着いていました。コーチを置いて歩いて行ってしまった様子をみて、興奮しすぎているなあと少し不安になりましたが、まわりは落ち着いていました。
 決勝の対戦相手であるインドのクマールが格下に見られていたのは、松永のときと同じです。でも、誰も浮かれていませんでした。3位決定戦が始まる前、セコンドに就くコーチが、「大丈夫。(金メダル)とれるから」と落ち着いて、自信たっぷりに話してくれました。

 金メダルの記憶は、選手本人だけのものでなく、コーチングスタッフ、サポートスタッフすべてにとっても貴重な体験です。いったん途切れると、なかなか復活させづらいことは、日本の男子レスリングがこの24年間で証明してきました。途切れたものは間を置くほど蘇らせるのが困難なので、どの国も、金メダルが途切れないよう必死です。たとえば、グレコローマンの金メダルが北京で途切れた韓国は、なんとか間を置かずにグレコ金の伝統を復活させようと、ロンドンへは強化陣を総入れ替えしてのぞみ、66kg級で優勝して復活させました。世界チャンピオンを毎年、複数誕生させ、常勝といわれ続けたロシアは、今回、フリースタイルで金がひとつに終わったことを問題視しています。
 金メダルの記憶を、日本は20年以上かかって取り戻しました。この経験は、ぜひ、次の金メダルへとつながってほしいなと願ってやみません。

 写真は、去年の世界選手権で2位におわったあとの米満達弘。金メダルとチャンピオンベルトが欲しかったなあと、銀色のメダルを手に取りながら、決勝戦を振り返っていました。このときの悔いと経験が、ロンドン五輪の金メダルへとつながりました。
 彼のレスリングでの目標は、「オリンピックでの金と、世界選手権での金をそろえて、佐藤満強化委員長(1988年ソウル五輪金)を超えること」です。もう一度、米満が世界一になるのを待ちたいと思います。

IMG_3706

0 件のコメント:

コメントを投稿